童謡『赤い靴』に登場する女の子の判定は「実在モデルあり」です。
北海道で宣教師に預けられた少女・岩崎きみが有力なモデルとされていますが、実は渡米できずに日本で亡くなっていたという悲しい真実があります。
この記事では、モデル説の根拠を整理し、歌詞と実話の違いや岩崎きみのその後についても詳しく検証します。
赤い靴の女の子は実話?結論
- 判定
- 実在モデルあり
- 根拠ランク
- D(有力説だが一次ソース弱)
- 元ネタの種類
- 人物
- 脚色度
- 中
- 確認日
- 2026年4月
童謡『赤い靴』の歌詞に登場する女の子には、岩崎きみという実在の少女がモデルとして有力視されています。1970年代のテレビ取材でモデル説が広まり、各地に少女像が建てられるほど定着しました。ただし作詞者の野口雨情自身がモデルを明言した記録はなく、根拠ランクはDとしています。
本記事は公開情報・報道資料・研究書籍を優先し、俗説は区別して記載しています。
なぜそう判定できるのか【根拠ランクD】
本作のモデル説は「有力説」レベルであり、公式明言や一次発言による裏付けはありません。
モデル説が広まったきっかけは、1973年に北海道新聞へ寄せられた岡そのという女性の投書です。岡そのは岩崎きみの異父妹にあたる人物で、「赤い靴のモデルは姉のきみである」と証言しました。
この投書をもとに、北海道テレビ(HTB)の記者である菊地寛が5年以上の取材を実施しました。1978年にドキュメンタリーが全国放送され、翌1979年には『赤い靴はいてた女の子』が出版されました。この著書によりモデル説が「定説」として広く受け入れられるようになりました。
ただし、作詞者の野口雨情(1882〜1945)本人がきみをモデルにしたと語った記録は見つかっていません。野口は生前に多くの童謡について制作意図を語っていますが、『赤い靴』のモデルについては言及がありません。一次ソースが不在であるため、根拠ランクはD(有力説だが一次ソース弱)と判定しています。
横浜・山下公園をはじめ各地に建てられた少女像の説明板にもモデル説が紹介されており、公的な場で広く認知されている説ではあります。しかし「広く知られている」ことと「一次資料で裏付けられている」ことは異なるため、ランクAやBには該当しません。
元ネタになった実話とモデル人物
モデルとされる岩崎きみは、1902年(明治35年)7月15日に静岡県で生まれました。
母の岩崎かよは未婚のままきみを出産しました。当時、私生児として生まれた子どもへの社会的な風当たりは非常に強く、かよは周囲からの偏見もあり厳しい状況に置かれていました。
その後、かよは北海道の開拓地へ移住することになりました。しかし過酷な開拓生活に幼い子どもを連れていくことができず、きみをアメリカ人宣教師のチャールズ・ヒューエット夫妻に預けました。
かよはヒューエット夫妻のもとできみが幸せに育ち、やがて渡米して恵まれた生活を送るものと信じていました。ヒューエット夫妻はメソジスト派の宣教師として1897年に来日し、仙台・函館・札幌などで活動していました。1907年には日本メソジスト教会北海道部の初代部長を務めた人物です。
しかし実際には、きみは結核を患い渡米することができませんでした。ヒューエット夫妻が帰国する際も病気のきみを連れていくことはかなわず、きみは東京・麻布の永坂孤女院(鳥居坂教会付属)に預けられました。
1911年(明治44年)9月15日、きみはわずか9歳で孤児院にて死去しました。母のかよは、きみが日本で亡くなっていたことを生涯知らなかったとされています。
一方、作詞者の野口雨情は1907年頃に北海道の北鳴新聞社で勤務しており、この時期にかよから「子どもを外国人に預けた」という話を聞いたことが歌詞の着想になったと推定されています。童謡『赤い靴』は1921年に児童雑誌『小学女生』に発表され、翌1922年に本居長世の作曲で広く知られるようになりました。
作品と実話の違い【比較表】
歌詞の内容と岩崎きみの実際の物語には、大きな相違点があります。
| 項目 | 実話(岩崎きみの物語) | 作品(歌詞の内容) |
|---|---|---|
| 女の子の行方 | 渡米できず9歳で日本国内にて病死 | 異人さんに連れられて行った(渡米を示唆) |
| 異人さん | アメリカ人宣教師ヒューエット夫妻 | 女の子を連れていった外国人 |
| 場所 | 北海道で預けられ、東京の孤児院で死去 | 横浜の波止場から出発 |
| 母親の存在 | 母・かよが苦渋の決断で預けた | 歌詞には登場しない |
| 結末の印象 | 病死という悲劇的な結末 | 異国で暮らしている切ない情景 |
本当の部分
「女の子が外国人に預けられた」という基本的な構図は、岩崎きみの実話と歌詞で共通しています。母親のもとを離れ、異国の人に連れられていくという切ない情景は、かよが体験した実際の別れを反映していると考えられます。
また、歌詞全体に漂う喪失感と郷愁の情緒は、わが子を手放さざるを得なかった母親の心情と重なる部分があります。2006年には文化庁の「日本の歌百選」にも選ばれており、多くの人の心に響く普遍的な哀しみが歌に込められています。
脚色の部分
最も大きな違いは女の子の行方です。歌詞では異人さんに連れられて外国へ行ったように描かれていますが、実際のきみは渡米できずに日本の孤児院で亡くなっています。
また、歌詞の舞台は「横浜の波止場」ですが、実際にきみが宣教師に預けられたのは北海道です。野口雨情が詩的な表現として横浜を選んだと考えられており、地理的な設定にも脚色が見られます。もっとも、野口自身がどこまで岩崎きみの実話を知っていたのかは不明であり、意図的な脚色というよりも伝聞情報をもとに詩作した結果と見ることもできます。
実話の結末と実在人物のその後
岩崎きみは9歳で病死しており、歌詞が描く「異国の少女」像とは異なる悲しい結末を迎えています。
きみの死後も、母のかよは娘がアメリカで元気に暮らしていると信じ続けたとされています。真実を知らないまま生涯を終えたという逸話が、この物語をいっそう切ないものにしています。
1970年代に菊地寛の調査でこの物語が広く知られるようになると、各地できみを偲ぶ動きが生まれました。1979年には横浜・山下公園に「赤い靴はいてた女の子像」が建立され、現在も観光名所として多くの人が訪れています。
その後、きみが亡くなった場所に近い東京・麻布十番のパティオ十番(1989年)には60cmのブロンズ像が設置されました。母かよが開拓に入った北海道・留寿都村(1991年)には「母思像」が、きみの生誕地に近い静岡・日本平(1986年)には母子像が建てられています。
このほかにも北海道・小樽の運河公園(2007年)、函館(2009年)、札幌・山鼻公園(2015年)など、ゆかりの地に次々と像や記念碑が設置されました。
2010年には横浜の姉妹都市であるアメリカ・サンディエゴにも設置されています。国内外に8体以上の像が存在しており、きみの物語は観光・文化資源として語り継がれています。
なぜ「実話」と言われるのか
岩崎きみモデル説が定説として定着した背景には、複数の要因が重なっています。
第一に、1978年のテレビドキュメンタリーと1979年の菊地寛の著書による広範な報道です。テレビという影響力の大きいメディアで紹介されたことで、一般に広く認知されました。
第二に、各地に建てられた少女像の存在です。横浜・山下公園の像は観光名所となっており、像の説明板にもモデル説が紹介されています。公的な場所に像が建つことで、説の信頼性が高まった面があります。
第三に、物語自体が持つ強い感情的訴求力です。「母が子を手放し、子は異国に行けず病死した」という悲劇的なストーリーは歌詞の切ない世界観と結びつきやすく、人々の記憶に残りやすい内容です。
一方で、2007年に作家の阿井渉介が著書『捏像』(正式名『捏像 はいてなかった赤い靴 ―定説はこうして作られた―』)で定説に異論を唱えています。野口雨情がきみの存在を知っていた確証がないこと、岡そのの証言の信頼性に疑問があることなどが指摘されました。
阿井の主な論点は、ヒューエット夫妻がきみと実際に会った証拠が乏しいこと、かよが未婚の子の存在を野口に打ち明けたとする経緯が不自然であることなどです。学術誌でも2012〜2014年にかけてモデル説をめぐる論争が展開されています。
モデル説は広く支持される有力説ではあるものの、「確定した事実」とまでは言い切れない状況です。「赤い靴の女の子は実話か」という問いに対しては、「有力なモデルは存在するが、証拠の確度には議論が残る」というのが現時点での妥当な評価です。
この作品を見るには【配信情報】
童謡『赤い靴』は楽曲作品であり、映画やドラマのような映像配信はありません。
童謡『赤い靴』に触れる方法(2026年4月確認)
- 音楽配信:各種音楽ストリーミングサービスで「赤い靴」を検索すると複数の歌唱バージョンが聴けます
- 横浜・山下公園:「赤い靴はいてた女の子像」を見学できます
- 東京・麻布十番:パティオ十番にきみちゃん像が設置されています
- 北海道・留寿都村:母思像(赤い靴の母子像)が建立されています
※関連する映画・ドラマの映像作品は確認されていません。
元ネタをもっと知りたい人へ【関連書籍】
岩崎きみモデル説について、定説を築いた調査記録と、定説に異論を唱えた検証書の2冊が出版されています。
- 『赤い靴はいてた女の子』(菊地寛/現代評論社)― 北海道テレビ記者が5年以上の取材をもとにまとめた調査記録。岩崎きみモデル説を広く世に知らしめた一冊です。
- 『捏像 はいてなかった赤い靴 ―定説はこうして作られた―』(阿井渉介)― モデル説の根拠を検証し、定説に疑問を投げかけたノンフィクション。別の視点から「赤い靴」の謎と定説の成り立ちに迫ります。

